ここまで海外の理論が続いたので、今回は日本の話をします。
日本の民俗学の父・柳田国男は、日本人の暮らしを観察して、時間がふたつの相に分かれていることに注目しました。
ハレとケです。
ケは、日常です。
田畑を耕し、飯を炊き、繕い物をする、繰り返しの毎日。
ハレは、非日常です。
正月、盆、祭り、婚礼。
この日は普段と違う「晴れ着」をまとい、普段は食べない餅や赤飯や酒が出て、村は労働を止めます。
「晴れの舞台」「晴れ姿」という言葉が残っているとおり、ハレは特別に区切られた時間・空間のことです。
大事なのは、ハレとケがきっぱり分けられていたこと。
晴れ着は日常で着ない。
餅は日常で食べない。
祭りの賑わいを日常に持ち込まない。
区別が価値を作っていました。
なぜ、こんなリズムが要るのか。
柳田や後続の民俗学者の見立てはこうです。
ケの暮らしを続けていると、生きる力が少しずつすり減っていく——「ケが枯れる」。
これが「ケガレ(気枯れ)」だという説があります(第11回の穢れと響き合う語源説です)。
枯れた気を、祭りの興奮と共食で一気に充電し、また日常に戻る。
ハレはケのための充電装置であり、共同体は「日常→消耗→祭り→回復」のサイクルで回っていた、というわけです。