第3部の理論をまとめると、こうなります。
儀礼は、人の変化に区切りをつけ(通過儀礼)、序列の外の絆を作り(コムニタス)、日常を充電する(ハレとケ)装置でした。
では、質問です。
その装置、いまのぼくらの手元に、どれだけ残っているでしょうか。
伝統社会の成人式は、本気の装置でした。
数週間の隔離、痛みを伴う試練、秘密の知識の伝授、そして帰還。
くぐり抜けた者は、本人も周囲も文句なしに「大人」です。
境界は一日で越えられ、越えたことは全員に明らかでした。
現代日本の成人式を思い浮かべてください。
市民会館で来賓の挨拶を聞き、記念品をもらって、同窓会をして帰る。
あの日を境に「自分は大人になった」と実感した人が、どれだけいるでしょうか。
現代社会では、大人への境界線そのものが、ばらばらに溶けています。
選挙権、飲酒、就職、結婚、親からの独立——昔はひとつの儀礼で一気に越えた線が、バラ売りされ、しかもどれを越えても決定打になりません。
30歳を過ぎても「自分はまだ本当の大人ではない気がする」という感覚が広く語られるのは、個人の未熟のせいというより、「大人になる装置」が社会から撤去されたからだと人類学は見ます。
区切りがなければ、変身の実感は生まれない。
第14回で見たとおりです。