1910年、一冊の奇妙な本が自費出版されました。
柳田国男『遠野物語』。
初版はわずか350部です。
岩手県の遠野盆地に伝わる話を、119の短い章にまとめた本です。
内容は、山男に女がさらわれた話、河童の子を産んだ家の話、死んだはずの人と道で会った話。
つまり、妖怪と怪異の話ばかり。
それだけなら、よくある怪談集です。
この本を特別にしたのは、序文の一行でした。
「これは目前の出来事なり」——これらは昔話ではなく、今この土地で現実に起きたこととして語られている話だ、と柳田は宣言したんです。
『遠野物語』の話は、遠野出身の青年、佐々木喜善が柳田に語ったものです。
佐々木は文学を志して上京していた人物で、故郷の伝承を膨大に記憶していました。
柳田はその語りを聞き取り、簡潔で張り詰めた文語文に書き起こしました。
大事なのは、この本の姿勢です。
当時の知識人にとって、田舎の怪異譚は「無知な民衆の迷信」であり、笑うか、正すかの対象でした。
前に紹介した井上円了の妖怪撲滅運動が、その代表です。
でも柳田は、笑いも正しもしなかった。
人々が実際にそう体験し、そう語って生きているという事実そのものを、一級の記録として書き残した。
序文の「平地人を戦慄せしめよ」という有名な一句は、都会の合理主義者への挑戦状です。
おまえたちの知らない現実が、山の向こうにはまだ生きているぞ、と。