男は馬の首を抱きしめて泣き崩れ、そのまま正気を失った——。
有名なこの場面は、後年に広まった伝承で、確かな記録があるわけではありません。
確かなのは、この時期にこの男が精神の崩壊をきたし、二度と戻らなかったことです。
崩壊の直前まで、彼は人類への挑戦状のような本を、猛烈な勢いで書き続けていました。
「神は死んだ」。
「これまでの道徳は、弱者の復讐である」。
「この人生を、もう一度そっくり生きたいと言えるか」。
男の名は、フリードリヒ・ニーチェ。
牧師の家に生まれ、神の死を宣告した男。
哲学史でいちばん誤解され、いちばん悪用され、それでもいちばん読まれ続けている人です。
今回は、誤解と悪用を引き剥がすところから始めます。
まず、最大の誤解から。
「神は死んだ」は、無神論の勝ちどきではありません。
ニーチェがこの言葉を最初に本格的に登場させた場面を見れば、一目瞭然です。
『愉しい学問』のその場面で、真昼の市場にランプを提げた狂人が現れて、叫びます。
「神を探している!」。
市場に集まっていた無神論者たちは、げらげら笑います。
神? 迷子にでもなったのかい、と。