父は鉄鋼王。
家にはブラームスやマーラーが出入りする、ウィーン文化の中枢のような大邸宅です。
その息子は、父の死で転がり込んだ莫大な遺産を——全部、手放しました。
一部は無名時代の詩人や芸術家への匿名の援助に。
残りは兄姉たちへ。
「金は人を堕落させる」という理由だった、と伝えられています。
そして彼は、工学から数学へ、数学から哲学へと突き進み、第一次大戦には志願兵として最前線へ。
塹壕と捕虜収容所で、リュックに入れて持ち歩いたノートから、一冊の薄い本が生まれます。
『論理哲学論考』。
「哲学の問題は、これで本質的に解決された」と序文で宣言し、書き終えると本当に哲学をやめて、田舎の小学校の先生になってしまった——。
男の名は、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン。
二十世紀哲学の主戦場を「言語」に定めた張本人であり、生前に刊行した哲学書はこの一冊だけ。
そして後年、自分のその一冊を、自分で解体しに戻ってくる男です。